街道用語集


※1:「決定版東海道五十三次ガイド」(講談社)より

【宿場(しゅくば)】※1
 東海道五十三次の五十三次とは、江戸の日本橋から京の三条大橋にいたる東海道に設けられた五十三の宿場のこと。
  宿場とは、街道沿いの交通の要地として幕府が認め、その支配下においた集落である。
 古くからの町がそのまま用いられたところもあれば、城下町の一部が指定されることもあり、また、あらたに住民が集められ、
  町屋(まちや)が形成される場合もあった。
 小田原、浜松、掛川、岡崎、水口などは、城下町の一部を宿場とした例。箱根は、新たにつくられた宿場の典型。
  元和(げんな)四年(1618年)、箱根関所の設置にともない、箱根の東にある小田原と西にある三島から、50軒ずつが集められ、
  箱根宿ができあがった。
 宿の役割は、主に三つあった。公用人馬の調達、公用文書の輸送、そして旅行者の宿泊である。それぞれの宿場では、
  これらをになう施設が整えられ、幕府によって管理されていた。
 宿場の中心地は、これらの役割を果たす問屋場(といやば)、本陣(ほんじん)、脇本陣(わきほんじん)などでしめられた。
  ついで旅籠(はたご)や店屋などがならび、宿のはずれには旅人をもてなす茶屋が置かれるのが一般的な配置であった。
  これらの建物は、多くの場合、街道に沿った地割にあわせて整然と建てられていた。

【本陣(ほんじん)と脇本陣(わきほんじん)】※1
 宿場にある宿泊施設のなかで、幕府の役人や参勤交代の大名、また公家(くげ)などが公用の旅で使用する宿舎が本陣である。
  幕府公認のお墨つきをもらった由緒ただしい旅館ということになる。東海道では、本陣は一つの宿場に数軒。地元の名家や、
  宿内の裕福な家の家屋が、これにあてられた。脇本陣は、本陣がいっぱいのときの予備として代用される、要人のための
  宿泊施設である。東海道では、これも一宿場に数軒置かれた。本陣と脇本陣には、玄関、門、書院を設けることが許された。
  これらの設置は本陣と脇本陣だけの特権で、旅籠屋(はたごや)には禁じられていた。大名は、数百人の家臣を引き連れて
  往来するので、その宿泊で宿場全体がうるおうこととなった。大名の宿泊が決まると、本陣の前には、その数日前から、
  大名の逗留(とうりゅう)をしめす関札(せきふだ)が立てられた。宿場はきれいに清掃され、その到着に備えたという。
 ただし、大名クラスの要人が宿泊する機会はそう多くない。脇本陣の多くは、通常はふつうの旅籠として営業した。
 しかし、要人以外を泊めることができない本陣は、深刻な経営難におちいるケースも出たという。

【問屋場(といやば)】※1
 宿の公用をおこなう事務所を「問屋場」と呼び、宿役人の長である「問屋」、助役の「年寄(としより)」事務担当の「帳付
  (ちょうづけ)」などが詰めていた。「問屋」には、その宿の有力者が任じられることが多かった。
 おもな仕事は、幕府の公用旅行者のために人足や馬、宿泊場所を手配したり、公用文書を運ぶ飛脚を管理したりしたが、
  実際の業務は多岐におよんだ。
 おまけに相手は「公務で旅するお役人」である。横柄な態度で無理難題をおしつけてくることも多かった。そのわりには、
  こうした宿役人の報酬は少なかったという。

【高札場(こうさつば)】※1
 幕府の発した法令などをしるした「高札」を掲示した場所。高札とは、「立札(たてふだ)」とも呼ばれ、木板に御法度(禁則)
  や掟(おきて)などを墨書したもの。高札場は、宿場内のほか、街道の追分(おいわけ)や渡船場(とせんば)、関所(せきしょ)
  など、旅人の目につきやすい各所に置かれた。横浜市神奈川地区センターには、神奈川宿の高札場が、幅3メートルほどの
  実物大で復元されている。
 なお、高札場だった場所は、「札の辻(ふだのつじ)」と呼ばれ、東京の品川、静岡市中心部(府中宿)、大津などには、現在でも、
 「札の辻」が交差点の町の名前として残されている。

【旅籠屋(はたごや)と木賃宿(きちんやど)】※1
 本陣、脇本陣が、公家、大名、旗本など公人の宿であるのに対して、一般の旅行人や、公用でない武士が利用した、食事付き
  の宿泊施設が、旅籠屋である。「一泊二食付き」で料金が設定されており、現在の旅館のスタイルは、これを踏襲している
  ことになる。
 旅籠の数は宿場によってさまざまだった。東海道では、宮、桑名、岡崎などの宿が、きわめて旅籠の多いことで知られ、
  なかでも宮宿は、250軒近くの旅籠でたいへんなにぎわいぶりだった。
 当時、旅籠として創業し、現在も旅館として営業をつづけている老舗も、多くはないが残っている。なかでも赤坂宿の
  大橋屋旅館は、もと旅籠「伊右ヱ門鯉屋」。いまも往時のおもかげを色濃く残したたたずまいで、旅の客をむかえている。
 泊まり客に食事を出すというのが、旅籠屋の特徴だが、これに対して、食事なしの宿が木賃宿である。旅人が米や干飯
  (ほしいい)、大根漬けなどを自分で持ち込み、これらを炊く湯代、薪代を支払った。
 江戸初期には、庶民の旅の宿としてこちらが一般的だったが、享保(きょうほう:1720年頃)以後は、旅籠が主流となっていた。
  木賃宿の宿泊料は、旅籠の三分の一から十分の一と安価であった。

【飯盛女(めしもりおんな)】※1
 旅籠には、大きく分けて二つの種類があった。飯盛女を置いた飯盛旅籠と、そうでない平旅籠である。
 飯盛女とは、泊まり客の相手をする女性のことで、その多くは、客と枕をともにした。当時、幕府は、宿場に遊女を置くこと
  を禁じており、飯盛女はいわば幕府黙認の売春婦であった。
 宿場のメインストリートは、飯盛女たちの客引きの声で、つねににぎわっていた。
 また、彼女たちの存在は、旅人ばかりでなく、近隣の若者たちを宿場に引き寄せ、宿場に経済的繁栄をもたらす重要な要素だった。
  このへんは、現代の繁華街の事情と変わらない。
 旅籠屋のなかには、一軒で数十人の飯盛女をかかえるところまであらわれ、見かねた幕府は、享保三年(きょうほ:1718年)に
 「飯盛女は一つの旅籠で二人まで」というお触れを出した。
 一方、飯盛女たちの処遇は、けっしてよいものではなかった。いくつかの宿場には、彼女たちにまつわる悲劇の名残や伝説も
  残っている。
 藤沢宿の永勝寺(えいしょうじ)には、かつて宿内で働いていた飯盛女たちをとむらう39基の墓石が、主人の恩恵から、当時
  の旅籠「小松屋」の墓域に残っている。

【木戸(きど)】※1
 宿場の出入口を木戸という。宿のはずれの両端にあり、多くの場合、文字通りの門戸がたち、その脇に番所(ばんしょ)が
  設けられた。
 宿場によっては、木戸の大扉は、昼間は開け放たれており、人々は自由に出入りできるが、夜間や非常時にはこれを閉じて、
  人馬の通行を制限したところもあった。